帰路に就き、鬼松が運転するリムジンの中で、一矢が優しく話しかけてくれた。
「伊織、そろそろお腹も空いただろう。昼食はなにが食べたい?」
「あ、そうね、久しぶりにミックが食べたいな。さっき看板が見えたから」
グリーンバンブーで働いていると、普段は厨房で作った出来立ての洋食を食べることが多く、ジャンクフードのような手軽でお手頃なものを口にする機会はほとんどない。だからこそ、たまには無性に食べたくなってしまうものだ。先ほど車の窓からちらりと見えた、あの大きな黄色い『M』の看板に心を惹かれてしまった。
「ミック……?」
しかし、私が何気なくその名前を口にすると、一矢は不思議そうに眉をひそめて、小首を傾げてしまった。
――え、もしかして、ミクドナルドの略称が『ミック』っていうのを知らないの……?
そんなに驚くことではないのかもしれない。だって、一矢は生粋のお坊ちゃまであり、世俗のことに疎い部分がある。だから、こうした一般庶民が親しんでいるような言葉や略称を知らなくても不思議ではない。
「あの……テレビのCMとかで、見たことない?」
念のため一矢に問いかけてみた。すると彼はやや呆れたように軽く首を横に振って答えた。「俗なテレビはほとんど見ないからな」
「ええと……じゃあ、普段は何をしているの?」
帰路に就き、鬼松が運転するリムジンの中で、一矢が優しく話しかけてくれた。「伊織、そろそろお腹も空いただろう。昼食はなにが食べたい?」「あ、そうね、久しぶりにミックが食べたいな。さっき看板が見えたから」 グリーンバンブーで働いていると、普段は厨房で作った出来立ての洋食を食べることが多く、ジャンクフードのような手軽でお手頃なものを口にする機会はほとんどない。だからこそ、たまには無性に食べたくなってしまうものだ。先ほど車の窓からちらりと見えた、あの大きな黄色い『M』の看板に心を惹かれてしまった。「ミック……?」 しかし、私が何気なくその名前を口にすると、一矢は不思議そうに眉をひそめて、小首を傾げてしまった。 ――え、もしかして、ミクドナルドの略称が『ミック』っていうのを知らないの……? そんなに驚くことではないのかもしれない。だって、一矢は生粋のお坊ちゃまであり、世俗のことに疎い部分がある。だから、こうした一般庶民が親しんでいるような言葉や略称を知らなくても不思議ではない。「あの……テレビのCMとかで、見たことない?」 念のため一矢に問いかけてみた。すると彼はやや呆れたように軽く首を横に振って答えた。「俗なテレビはほとんど見ないからな」「ええと……じゃあ、普段は何をしているの?」
「一矢様、伊織様にはこちらの水着がよろしいかと存じます」 鬼松が一矢に差し出したのは、白を基調にピンクや黄色などの柔らかなパステルカラーの花柄が美しく散りばめられたワンピース型の水着だった。ホルターネック部分にはさり気なくビジューが施されており、華やかさと上品さを兼ね備えている。 さすが鬼松、普段の嫌味さとは裏腹にセンスは抜群だ。遠目から彼らのやりとりを見ていた私は、内心でこっそりと鬼松に軍配を上げた。私の好みをよく理解してくれている。「どちらも甲乙つけがたいな……」 一矢が難しげに腕を組んで呟いた。いやいや、着るのは私なのよ? 一番肝心な私本人の意見は、なぜ全く聞いてくれないのかしら? 実際に体に合わせてみないと似合うかどうか分からないというのに……。 しかし、ここで私が余計なことを口にすれば、デパートの人たちにニセ嫁だということがバレてしまう。私は仕方なくひきつった笑顔を必死に顔に張りつけながら、イケメンの男性二人が真剣に水着を選んでいるという滑稽な光景を、離れたソファからただぼんやりと眺めるしかできなかった。「支配人、こちらはどう思う? 妻に似合うだろうか? ただ、少々露出が多いような気もするのだが……」 一矢が手に取った水着は、ワンショルダータイプの真っ白なものだったが、問題はお腹の部分が大胆にくり抜かれており、非常にセクシーなデザインだった。 まさか旦那様(ニセ)は、こんな大胆なものを私に着せるつもりなのかしら!? これを着て『貧相だ』なんて言われようものなら、鬼松ともども土下座を要求するわよ! 『グリーンバンブーに帰らせていただきますっ!』となったら困るのはそっちなんだからねっ! 「清楚なお嬢様だからこそ、時には普段とは違うエキゾチックな雰囲気を楽しんでみるのもよろしいかと存じます」 ちょっと支配人ったら! ただうまく言いくるめて在庫を捌きたいだけでしょう? 私は絶対にそんな露出度の高い水着は着ませんからねっ! なんとかしてどれか一着に絞らせなければ。あんなに大量の水着を購入されても困ってしまう。 まるで会議か商談をしているような光景に退屈した私は、ふと積み上げられた段ボールの中から何気なく水着を手に取った。すると驚くほど真っ赤で、生地の量が極端に少なく、隠すべき部分がほとんど隠れていない超大胆なデザインだった。
今日は一矢の宣言通り、銀座のデパートで買い物をすることになった。 自慢じゃないけれど、私は銀座のデパートというものにはこれまで縁がなかった。せいぜい目の前を素通りするだけで、実際に入店するのは今回が初めて。今まで「デパートで買った」と豪語していた私のワンピースなんかは、もう少し庶民的なデパートで買ったお手頃品。 だから鬼松――いえ、中松が私のワンピースを取り上げて「貧相な召し物」とのたまったのも、正直言えば納得できなくもない。 それにしても銀座という街は、まるで美しい夢を現実にしたかのような高級感と優雅さに満ち溢れていた。立ち並ぶ洗練されたビル群は陽光を反射して宝石のように輝き、まるで街そのものが煌めいているかのよう。 一矢の乗る車はその豪奢な光景の中を滑るように進んでいく。中松の運転するリムジンは一切の迷いも見せず、堂々と高級デパートの前で車を停めた。まるでそこが自分のためだけに用意された場所であるかのように自然な振る舞いで、ただただ恐縮する。 車が停まるとすぐに黒いスーツを着用したスタッフが深々とお辞儀をし、私たちを出迎えた。その仕草には慇懃で上品な気遣いが込められており、私はまるで特別な存在になったかのような錯覚を覚えるが、庶民なので惑わされない。 案内されたのは、一般客が立ち入ることは決してない、秘密めいた専用VIPルーム。そこは単なるサロンとは違い、完全な個室として設えられていて、壁紙から家具に至るまで上質な品格と細やかなこだわりが感じられた。照明も優しく抑えられ、落ち着きのある静かな空間はデパートの喧騒とはまったく別の世界が繰り広げられている。 こんな場所がデパートの中に存在しているなんて……。私は初めて目にするその豪華な空間に、尻込みした。 現在このデパートでは夏の催事が行われており、水着や浴衣が展示・販売されているようだった。そのタイミングがよかったのか、V
彼のようなお金持ちに一般庶民の気持ちはわからない。「伊織は」一矢が私のすぐ横に腰かけ、そっと私の手を取りながら静かに語りかけた。「私が今朝、どれほどの絶望を味わったか、理解できるか?」「はい?」 なにを言っているのか、まるで理解できなかった。 絶望? この人に絶望なんて似合わない。「私はずっと、この広い屋敷で一人きりで眠りについてきた。昔、伊織の家で家族と雑魚寝した時以外、誰かの温もりを感じて眠ったことは一度もない。その私が、夫婦として初めての朝を迎えることになり、どれほど嬉しかったか……。それなのに、目が覚めたら隣にお前がいない。その時の絶望をお前に想像できるか? 家族が大勢いて賑やかな環境で暮らしてきたお前には、この孤独がどれほど辛いか分からないだろうが、もう少し私の気持ちを察してほしかったのだ」「そんなこと、はっきり言っていただかないと分かりません。今後は一矢様のおっしゃる通りに致します」 私は努めて感情を押し殺し、淡々と答えた。「伊織……悪かった。借金の話を持ち出してお前を傷つけるような真似は、二度としないと決めていたのに、中松にそのことを伝えるのを怠っていた。確かに契約結婚の引き換えに一千万円を用立てたのは事実だが、私もお前に途中で辞められては困る。すでに婚約パーティーの話を周囲に発表してしまった以上、後戻りはできない。お互い引くことができないのだから、立場は対等だと思っている」 対等? 全然対等なんかじゃない。でも言い返さずに黙って耳を傾けた。 「中松には、今後一切借金のことを口にするなと厳しく言ってきた。だから……これまで通りに戻りたいのだ。お前がこんな風によそよそしくなる方が、私には辛い。許してくれないか? 二度と借金のことは言わない。この通りだ」 一矢の真剣な表情をじっと見つめ返した。このプライドが服を着て歩いているような男が、今、私に頭を下げている。その姿に優越感など感じなかったが、人
「最初に喧嘩を売ってきたのは一矢の方でしょう!」 もはや私も引くに引けず、声を荒げてしまった。「伊織様! 一矢様になんという口の利き方を! ご自分のお立場をわきまえてください!」 大声で言い合いをしているところへ、一矢の味方である鬼松が駆けつけてきた。彼は左手にパンやスープを乗せた銀色のトレイを優雅に持っている。「中松。一矢は私が朝に起こさなかっただけで『嫁失格』などとおっしゃったのですよ。気遣って差し上げただけなのに、いったい、なにが悪いのでしょうか? そんなに私が嫌なら他の方にニセ嫁をお願いすればいいと申し上げていたところです!」 腹が立ったので丁寧な口調で私が必死で訴えると、中松は冷ややかに微笑んだ。「伊織様、主人の言葉にはどんなに理不尽でも絶対服従でございます。一矢様はあなた様のご主人でもあられます。ご不満ならば、どうぞ即刻ニセ嫁修行をお辞めになり、緑竹家にお戻りくださいませ。当然、借金一千万円は即座に全額返済いただくことになりますが、そのおつもりでいらっしゃるならどうぞご自由になさってください」 中松の言葉に、もはや何も返すことができなかった。 もうこんな修行辞めたい。令嬢など私に務まるはずもない。でも、私が頑張らなければ家族が路頭に迷ってしまう。唇を強く噛みしめて頭を下げ、涙を必死で堪えた。「……申し訳ありませんでした。立場をわきまえず、夫に失礼な態度を取ってしまいました。少々気分が優れませんので、部屋で休ませていただきます。朝食は結構です」 滲んだ涙を見られぬようにして、広い
結局、一睡もできず憔悴しきった私は、そっと一矢の腕の中から抜け出し、窮屈なコルセットを必死で身につけ、苦しさに耐えながらお嬢様風のドレスをまとった。鏡の前に立つと、自分でも令嬢らしい姿(あくまで見た目だけの偽者)にはなっていると思えるけれど、マナーや立ち居振る舞い、まして言葉遣いなど到底令嬢には及ばない。婚約披露パーティーまで一か月という時間しかない中、本当にニセ嫁が務まるのか、内心は不安でいっぱいだ。それでも一度引き受けたからには、責任を持ってなんとかやり遂げるしかないだろう。 早朝から鬼松――もはや修業中は、中松ではなく鬼松と呼ぶことに心の中で決めている――の厳しい指導に耐え抜き、ようやく迎えた朝食の時間。一矢におはようと丁寧に挨拶をしても、彼はぶすっとした表情のまま、明らかに機嫌が悪い様子だった。彼の不機嫌なオーラがあまりにも明白で、思わず戸惑ってしまう。――なにその態度……昨夜は勝手に私のファーストキスを奪っておいて、どうしてあなたがそんなに不貞腐れた顔をするのよ! 怒りたいのはこちらの方なのに! 心の中では苛立っているのに、一矢はそんな険しい表情を浮かべながらも、相変わらず私のすぐ隣に腰を下ろしてきた。広々としたダイニングなのだから、もう少し距離を取って座ればいいのに……。「伊織。どうして私を起こしてから朝の挨拶をして出ていかなかったのだ?」 一矢が苛立ちを隠さず、冷たく問いかけてきた。「え? 早朝からニセ嫁修行があったし、気持ちよさそうに寝ていたから、起こすと悪いなって思ったから、声を掛けなかっただけよ」「そんな気遣いは余計だ。夫婦として初めて共に過ごした夜の翌朝だぞ。目覚めた時にお前が隣にいるのが当然だろう。それこそが妻の務めだと、なぜわからない?」「そんなことを言われても…